コンテンツは現場にあふれている。会議室で話し合うより職人を呼べ。営業マンと話をさせろ。Web 2.0だ、CGMだ、Ajaxだと騒いでいるのは「インターネット業界」だけ。中小企業の「商売用」ホームページにはそれ以前にもっともっと大切なものがある。企業ホームページの最初の一歩がわからずにボタンを掛け違えているWeb担当者に心得を授ける実践現場主義コラム。
宮脇 睦(有限会社アズモード)
心得其の302
コンテンツ作文の条件
日常を切り取り、等身大の自分で、得意分野の庭に招じ入れて語る「ブログ」と、不特定多数のお客向けに伝えることを目的とする「コンテンツ作文」は別物。この混同で損をしている文章は多く、Web担当者なら常に意識しておかなければなりません。というわけで、前回に引き続き「作文」がテーマです。
上記の理由から、アルファブロガーの文章がコンテンツとしては「使えない」ことも珍しくありません。特に人気者になればなるほど「自分の庭」で語ります。得意な言い回し、好む慣用句、独特の比喩など、読者があらかじめ知っている前提でつづられるからです。読者にとってはそれがたまらない魅力であっても、読者以外からみれば「意味不明」なことも。
そして前回の「珍しい牛肉料理」も意味不明。一言で述べれば「客観性」の違いですが、客観性は「コンテンツ作文」の絶対条件です。
基準がないと迷子になる
某ラーメンチェーン店が、NHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公「新島八重」に便乗した期間限定メニューの説明に、「当時では珍しい牛肉料理」とありました。しかし、何と比較して珍しいかを明示しなければ、珍しさの度合いがわかりません。これが「客観性」で、第三者が見てもわかる基準を明示することで説得力を高め、文章に深みを与えます。反対に、客観性を排除することで、偏りを生みだす、おもしろさへとつなげる「ブログ」の手法もありますが、「商業ベース」ではありません。
そもそもこの文章は、明治の初期は「獣」を食べないという思いこみを前提としていますが、いまでいうところの「幕府のプロパガンダ」を鵜呑みにしたものです。日本人は縄文時代から獣肉を食べており、仏教が伝来した後も食べ続け、江戸期にはいっても、後に「近江牛」ブランドを確立する地の彦根藩が、将軍様に「牛肉の味噌漬け」を献上していたという公式の記録があります。
つまり、表向きだけのご禁制だったのです。また、「獣肉ではないから食べてもOK!」という方便のため獣肉には別名があり、「さくら=馬肉」「ぼたん=いのしし」「もみじ=鹿肉」となります。
珍しくない牛鍋
さらに続けると、前回触れたようにラーメン店では「京都にいた際に、市内にある老舗店に夫婦一緒に……」と、「夫婦」と紹介することで時代の特定を試みていますが、新島八重と新島襄が結婚したのは明治9年。このころすでに牛鍋は広く知れ渡っており、「珍しい」とする価値に疑義が残ります。つまり「珍しい」とする根拠が見つからないのです。
これでは「客観性」が揺らぎます。細かいことのようですが、コンテンツとして世に出すときは、時代背景や事実関係などの「裏取り(事実確認)」が必要で、Web担当者にはより求められます。なぜなら、ネットでは「検索」が容易だからです。
特に断定できない論拠しか見つからなければ、その表現は捨てるほうが賢明です。ましてこの企画において肝心なことは「新島八重」で、ならば「新島八重も食べた牛肉料理」で十分ということです。事実だけを述べるだけにとどめ、客観性を担保するのです。
やってはいけない三点リーダー
次に、余談として話を誇張するための「ブラックテキスト芸」を紹介します。まず、次のように記載します。
新島八重も“好んで”食べた牛肉料理
「嫌い、と明言していない以上、好きだった可能性も高い」という、悪魔の証明(まったく存在しないことを証明するのは困難であること)を逆手に取った手法です。客観性は無視して、読者に与える「印象」に重きを置く手法です。
そもそも基準を明示しない文章には「思いこみ」があります。先の「珍しい牛肉料理」はその典型です。客観性を意識すれば、どれも避けられることですが、ある意味もっとも客観性を求められるのが「自分」です。それは「わかってくれる(はず)」という思いこみであり「…(三点リーダー)」の用い方に表れます。
自信のなさの表れ
私的なブログの執筆経験しかない人に多くみられるのが、三点リーダーを前段を省力するためや無音の表現としての「……」ではなく、
これがこの商品の良いところです……
といった用法です。これを読んだ読者はこう思うことでしょう。
だから、なに?
筆者の「他にも良いところがある、すべてを語らずとも理解して!」という思いこみが、余計な余韻の記号を記入させ、結果的に読者を苛つかせたり、混乱させたりします。客観性とは読者の視点と置き換えてもいいでしょう。さらに、
「……」
という表現は読者に「そのとき、筆者はなにを考えましたか」という、国語の読解力のテストの解答を強いる傲慢な行為です。コンテンツ作文においては、表現上、絶対的に必要だと確信していない限り、使うべきではありません。
筆者は神ではない
また、「……」は、自信がなく、曖昧に逃げたいときに多用される傾向があります。「……」と打った際は、曖昧さを読者に押しつけていないかと自問してください。それでもわかってくれるだろう、という思いは、客観性の対極にある「思いこみ」です。
日本テレビ系列で放送されているアイドルグループ「TOKIO」の長瀬智也さんが主演するコメディー「泣くな、はらちゃん」では、マンガのなかのキャラクターが現実世界に飛び出し、作者の麻生久美子さんを「神様」と呼びます。漫画や小説の世界において筆者は神です。ブログも自分の世界で完結できるので「神」といっていいでしょう。しかし、コンテンツの筆者は神ではなく「解説者」です。
先週からの引き続きで引用すれば「新島八重ラーメン」のすばらしさを伝える解説者です。まとめの意味を込めてプロ野球の解説者で例えれば、「凄く速い球を投げるピッチャー」ではなく、「時速160キロを投げられる」や「ダルビッシュ以上の速球」になるということです。
主観のみが許される「ブログ」と、客観性が不可欠な「コンテンツ」の違い。これを意識して区別できるようになれば、ワンランク上のWeb担当者になれること請け合いです。
今回のポイント
作文とは解説
思いこみと、読者への甘えを排除する
- コーナー:企業ホームページ運営の心得
- 内容カテゴリ:Web担当者/仕事
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オリジナル記事:主観が許される「ブログ」と、客観性が不可欠な「コンテンツ」 [企業ホームページ運営の心得] | Web担当者Forum
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